偏見って、持ってる本人は持っているとは思ってない
どうも、かわいい子のSNSにはいいねしがち、ハルハロです。
先日こんなことがありました。
女の子A「この前すごくかっこいい人に言い寄られてさぁ、見た目からヨーロッパ人だと思ってたんだよ。そしたらよく話を聞いてみるとサウジアラビア人でさ。がっかりした。」
この話を聞いた時僕は目ん玉飛び出そうなぐらい驚きました。なぜかって偏見の強さが尋常じゃないからです。そのときに気づいた、偏見についての事をまとめておきたいと思います。
偏見の定義
まずこの女の子自身はこれを微塵も偏見だと思っていませんでした。僕が「なんでいやなの?」と聞くと「なんとなくいやじゃん」としか答えません。僕が「それ偏見じゃない?」と聞くと「そうかな」と言います。ここで偏見の定義を見てみましょう。
かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断。
引用:
まさに、ですね。”客観的な根拠なしに”女の子はサウジアラビア人の事を拒否しています。なんとなくって言ってますからね。そもそも、その人の出身がどこであろうがその人のかっこよさに差異は生まれないはずですからこの女の子の発言は偏見以外の何物でもないと思うのです。
偏見が強い人は、自分が正しいことを疑わない
僕が思う偏見の怖いところって、本人は偏見を持っていると思っていないところです。人間は自分の持っている知識や、感覚を最優先し、正しいと思う生き物です。もしその人が偏った知識しか持っていなければその人にとっての正義や正解は偏ったものになってしまいます。
日本で特に大きな偏見の問題と言えば、嫌韓ですよね。韓国人を嫌いな人って本当に自分の偏った考えや知識、または染みついた「なんとなく」で嫌っています。そして本人たちはそれを「偏見」だとは思っていません。本人たちにとってみれば韓国人を嫌うことが正義であり、ごく自然な流れなのです。真実はそうでないにも関わらず、です。
なぜ偏見がいけないのか
では、ここで発想を変え、なぜ偏見を持ってはいけないのでしょうか。まず一つは本人にかなりの損害を生みます。偏ったものの見方や考え方はその人の行動の範囲を無意味に狭め、無意味な精神の消耗を生み、人からの信頼を傷つけ、人生においての幸福感を低下させます。
偏見を無くすには
ではどうやってこの偏見を無くすことができるのでしょうか。それは、自分が偏見を持っている可能性を認める事です。
あなたがいちごを赤いと思ってるのってなぜかわかりますか?それは人間が赤を見ることができるからなんです。赤色を見ることのできない犬はいちごを赤だとは思っていません。もし人間全員が赤色を見ることができなければいちごは赤ではないのです。そう考えると、いちごが赤っていうのは私たち人間の、ある意味偏ったものの見方であるとは言えないでしょうか。
私たちが完全に偏見を持たないことは不可能なのです。なので、常に自分が間違っている可能性がある事を念頭に置けば、価値判断も多少は客観的にすることができるのではないでしょうか。
最後に
偏見を持っていないことはよい人間関係を築き、大きな学びや経験を得ることに役立ちます。あなたも自分の偏見の可能性を疑ってみてくださいね。